2007年9月 「シアター・バビロンの流れのほとりにて」
第8回レパートリー公演 『少年−神曲煉獄篇』
 「病める心の記録 ある精神分裂者の手記」より
  
 
   

 
CAST
薄井政人
小島一洋
白石隆信
畠中裕美
 
村山俊介
吉村ひろの
菅原みなみ
 
STAFF
音楽:落合敏行
照明:アイカワマサアキ+スタッフ塾
舞台監督:川俣勝人
仮面・版画・小道具:脇谷紘
舞台美術:岡村洋次郎
宣伝美術:丘美恵太
映像記録:たきしまひろよし(PLASTIC RAINS)
スチール記録:阿波根治(スタッフ・テス)
制作:坂本康郎
 
 
上演によせて -演劇の愉しみについて- (岡村洋次郎)
 
あるクリスチャンの女性が、停留所の木漏れ日の中、バスを待っている時突然、マリアの処女受胎をまさに天啓のごとく受容したという文書を読んだことがあります。この時の彼女が妊娠していたのか、そうでなかったのか憶えていないのですが、ある懊悩のただ中で掴みとった、他者には説明しえない、絶対的飛躍のある<識知>その紛れもない真実の経験だったと思われます。これを単に宗教的悟りと限定してしまうのではなく、人間の認識する力の無限定性の証としていいと思っています。このような認識の経験を大多数の人達が忘れて久しく、認識を超えた認識に至り得る可能性をいつの間にか信じなくなってしまったのではないか。あるいはニーチェの『神は死んだ』という<識知>から、すべては相対的認識の闇に落ち込み易くなってしまったのではないか。すべては無価値へと虚無へと向かうという試練に晒され続けてきたために、認識を超えた<識知>というものが、いつのまにか脱落していったのではないか。今回の舞台の題名を、ダンテの神曲から引用したのもダンテ神曲の中に<識知>的経験を発見したからに他なりません。仏教における阿頼耶識といった概念、唯識論的発想をいきなり受け入れなくとも、個的経験からの<識知>的経験は、決して閉ざされてはいないと思うのです。しかしこの<識知>的経験は真理へと至る道ではなく、怖ろしい実存的経験の場に「からだ」を開くということであると思います。伝えようとしても決して伝ええないという、そこにはあるひとつの印になるような言葉があって、しかしそれを言ってもいっさい、誰にも、伝わらない。常に何かを封印するようなかたちで表現するしかないものがある。だからこそ<識知>に至る道筋を開いてゆきたい。舞台は認識の場ではない、経験の場である、その経験とひとつになった過酷な<識知>の場である。それが舞台という場であれば、観客の無意識から立ち上がる想像力こそが希望である。そのような場が、まさに観客の無意識によって待たれていると思われるのだが、どうだろうか・・・。
 


 
2007年5月 「シアター・バビロンの流れのほとりにて」
第7回番外公演 『少年−神曲煉獄篇』
 「病める心の記録 ある精神分裂者の手記」より
 
  
 
    

 
CAST
阿部隼也
薄井政人
小島一洋
嶋津和子
白石隆信
畠中裕美
帆足知子
山田慶子
 
村山俊介
吉村ひろの
菅原みなみ
 
 
STAFF
音楽:落合敏行
照明:アイカワマサアキ+スタッフ塾
振付:岡庭秀之(開座)
舞台監督:川俣勝人
仮面・版画・小道具:脇谷紘
舞台美術:脇谷紘、岡村洋次郎
宣伝美術:丘美恵太
映像記録:たきしまひろよし(PLASTIC RAINS)
スチール記録:阿波根治(スタッフ・テス)
制作:坂本康郎
 
 
上演によせて (岡村洋次郎)
 
今回の公演の『少年』の台本に取り組むことを決めて、しばらくしたある日、何気なく手にとって開いた、ダンテの神曲のそのページに「美しき静けさよ、その罪深き怒りの失せし、その後の・・・」という文字が目に飛び込んできたのです。そして急いで神曲を読み直してみて発見したことは、ダンテが自分と同じ設問に悩み、それをあろうことか超えてしまっていたということの気づきでした。「わたしの中で不滅という言葉が崩壊した・・・」という識知を超えた識知にダンテは至ったわけです。その後、若くして死んだベアトリーチェの導きによって「私は愛・・・私は光・・・」という啓示を受けるという大団円が待っているのですが、これはもう宗教的悟りと何の区別も無い、しかしダンテの個人的文学として残されていて、もちろん個人を超えたおそらくイタリアにとってはその正しい意味での国民的文学と云えるのではないかと推測していますが、ここには私がいつの間にか失念していた、人間の理解を超えただからこその人間の希望が存在していたことの金字塔が印されていた、と言っていいだろうと思えた事が、私の新しくたどたどしい認識でした。上記の「美しき静けさよ・・・」云々はダンテの神曲の煉獄篇のつまり罪を浄化する山における言葉で、天国篇への扉のような言葉になっているのですが、今回の舞台でその様な無謀な冒険が可能になるのでしょうか?どうやら、それに狂気の如く今は挑戦してみるしかないようです。<美しき静けさ>という<青空>を一瞬でも垣間見ることができたらと思っているのですが・・・。 (岡村洋次郎)

 

 
2005年5月 「pit 北/区域」 こけら落し公演
第6回公演 『Watashi wa Inko』(再演)

 
  
 
  

 
清廉に研ぎ澄まされる、仮面劇の言葉 (故・井上二郎/演劇ジャーナリスト)
 
王子に<バビロンの流れのほとりにて>という劇場を運営するオフィス、東京バビロンが、王子駅前のビルの地下に<PIT 北/区域>という二つめの劇場をオープンさせた。そのこけら落とし公演。この劇場は、客席が舞台の2辺に面して二つに別れ、満席でも80ほどという小さな空間だが、座ってみると、芝居がとても近く、また、舞台の天井がかなり高い。舞台と客席が固定された“くつ箱型”の空間に慣れきってしまうと、照明や装置はしばしば貧困になる。かえって、ここのようなクセのある空間の方が作り手への刺激になるものだ。今回の「Watashi wa Inko」でも、包帯でグルグル巻きにした大型の冷蔵庫が高い天井から音もなくゆっくりとせり落ちて来たり、すぐ目の前の壁に落ちるサスのシルエットがはっとするほど美しかったりと、独特の創意工夫が楽しかった。
 
名門高校教諭の父親が家庭内暴力の息子を包丁で刺し殺す。3年前に実際に起きたこの悲痛な出来事を、5名の俳優が、仮面をつけ、父、母、息子、息子の恋人などに扮して演じていく対話劇である。例えば、殺された息子の恋人らしき女と、殺した両親の冷え冷えとするような対話がある。この女が、「自分たちも被害者なのだ」という両親の心に潜む欺瞞を責め、両親は無意味な自己弁護を繰り返す。あるいは事件の直前、これから息子を殺す父と母の、ふと気味悪い生暖かさを漂わせながら「殺しちゃおうか」とつぶやく、その共犯関係の対話。さらには、すでに殺された息子が両親を難詰し、息子がいつのまにか祖父に入れ代わり、両親(祖父から見れば息子)の行いをなじる。
 
抜き差しならぬ人間関係と、言葉の、どちらが先に生まれているのか。この対話劇における人間関係と言葉が、仮借なく鋭くこちらに迫って来た。抑制の効いた演技のゆえか、仮面によって俳優の個性がひとたび背後に退くという効果なのか。罪人とそれをとがめる者、傷つけるものと逃げる者。そういう関係が、澄み渡るように明晰で、言わば、ナマの人間と人間の関係を超えたものとしてそこにある。個人の小さな器を越えた、重く深いものがその場を支配している、と言えば良いか。これに較べると、あまたの対話劇と称する芝居の関係性のなんと緩く、いい加減なことか(それが凡庸ということか)。ここで最大の力は、やはり、事件の現実的時間を解体構築する構想力と研ぎ澄まされた台詞、すなわち台本の力に相違ないと思われた。
 
「事件をもう一度、生きてみることによって、救済に到達できないだろうか。」そういう試みだったと、作・演出の岡村洋次郎は語っていた。清廉とも言える言葉を紡ぎ、仮面劇の豊かな可能性を舞台は雄弁に告げていた。劇団阿彌の次作にも注目したい。
 
CUT IN no.39(小劇場の新聞)より

 

 
2004年7月 「シアター・バビロンの流れのほとりにて」
第5回公演 『Watashi wa Inko』

 
  
 
  

 
男性(40) 仮面だからこそ 殺人を犯した心情やゆらぎを出せるん部分もあるんだと再発見。能面とは違うリアルな面がまたそれを強く感じさせた。あえて小屋の温度をあつく設定してたのも こわい汗が出てきてGood です。またDM下さい。
 
男性(20) いろいろな点が線で結ばれていく感じなのでしょうか。様々な解釈の余地があると思います…考え直してみようと思いました。
 
男性(37) 重いテーマをしっかり演出できていてよかったと思います。また違うテーマを見てみたいと思います。
 
男性(26) 見慣れない形式が斬新テーマもなかなか興味深かったと思います。重いストーリーに観客を引き込むことには成功していたのではないかと。ところで、この劇 クライマックスはないの?あと、仮面にはどういうイミがあるんですか?

 

 
1997年9月 「フジタ・ヴァンテ」
第4回公演 『アミナダブ』
 ―モーリス・ブランショ 「死の宣告」より
 
  
 
  

 
出演:故・観世栄夫(観世流能楽師)
 
女性(22) お能の要素が入っていたことと、難しいテーマとで今までにみたことのない雰囲気をもった劇だったと思います。ピーンとはりつめた中で自分もこわいくらい緊張していました。それだけこの劇に静かな でも 果てしないパワーがあったのだと思います。
 
女性(23) 非常に抑圧された感情の中に人間の真の姿を見た気がします。私達が日常を過ごしているこの人間社会がいかにどうでもよい感情・表情に満ち満ちているかを痛感しました。今後の活動を楽しみにしております。
 

 
1997年5月 「ウエストエンド・スタジオ」
第3回公演 『改訂版 少年 ―ある精神分裂者の魂の記録』

 
  
  
 
女性(25) 神経科通ってます。軽い不安神経症と、「アダルトチルドレン」でです。非常にきつかったです。子供の頃、親に自閉症の施設に入れられそうになったことと、精神病院につれていくぞとおどされたこと等思い出しました。でも、私は明日もまた通院します。
 
女性(21) 長かった。もしか もっと ゆったり座っていられたらそうは感じなかったかも判んないけども。ギューギューで 体 ナナメにしてみていたので、ラスト30分くらいは息苦しくて 体 いたくて「アア。立ち上がって背中をぼきぼきならしたい」なんて考えてうわのそら。羽がふわふわ降りてくるところがキレーで印象的。まえにみたのよりか ずっと おもしろいっておもったけど、やっぱり体がつらいのが つらかった。全体的に「こわい夢」みたいで、イメージが次々にうかんでとらえどころがないような感じ。が ラストの方でキレイにつながってつかめて希望もあって。みていて あれは快感でした。またみにきます。
 
女性(20) 自動車のオブジェが素晴らしかったです。ヒロシが自動車の真中でねそべるシーンなど絵をみているようでした。役者さん達が皆、内面からわきたつ気持ちを大切に、1つ1つを非常に丁寧に演じていたのがとてもよく伝わりました。皆、足袋をはいている意味を理解して演じていたのが感心しました。
 

 
1995年10月 「中野 テルプシコール」
第2回公演 『荒野より呼ぶ声ありて』 ―高校教師とその妻による息子刺殺事件より

 
  
 
  
 
女性(21) とても悲しかった。ゆっくり じっくり考えていきたいと思います。殺される為に生まれてきた人なんて、又、殺す為に生まれてきた人なんていない。だけどどこでくるってしまったのか、皆が他に愛を求め、与えずに自分の中に閉じこもり、とても息苦しかった。本当はみんないい所あるはずなのに。
 
女性(22) 背すじが寒くなるような怖さを感じた。こういうことが本当にあるというのがこわいと思う。他にどうしようもなかったというお父さんの言葉が印象に残りました。つきなみな言い方ですが、迫真にせまる演技でした。
 
女性(−) 当時、ご夫婦への嘆願書を、頼まれましたが、どうしても、署名できませんでした。彼は、死んでしまっていて、親は、生きているのです。たとえ、親であっても、親であったら、なおさら、子供を殺す権利はないのです。“命の棲家”で、なくなった家庭は、すぐに恐れず、逃げ出すべき。家族に、固執することは、ないのです。
 
女性(32) 舞台の上の生木。これからもっともっと大きく生きていっただろう生木が、切られ、その身体をさらしているようすが、いたいたしくもあり、生々しく、殺されていった少年の思いをその存在そのものが、語っているようであった。ロープに結ばれている紙(?)が、おみくじのようで、この家族やたくさんの人々のいのりの気持ちが、結びつけられているように感じられました。
床の点々の光がよかった。星空や宇宙のようで重いテーマの中、暗てんの中に、星が、ちりばめられているようで、ホッと息がつけ、ひろい宇宙の中でおきた出来事のように感じられた。死んだ父の墓まいりに行こうと思いました。(父は病気で死んだのですがしばいをみて、私たちかぞくの中におこったいろいろな思いをおもいだしまして。)
 
女性(50) 現代の日本人の原罪ともいえるのでしょうか。他人事ではないと考えます。
 

 
1994年8月 「白州アートキャンプ」/1994年9月 「つつじヶ丘児童館」
第1回公演 『少年 ―ある精神分裂者の魂の記録』

 

 

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