【彼女達の理由への お誘い】
 
 今、時代は急速に変わろうとしています。20世紀後半からずっとそんな感じがしないでしょうか?ダンスも、今さらに、新しいダンスが求められているよう に思われます。現代のダンサーたちは、「生きる為にダンスをしている。」という、ある意味切実な動機を持って、舞台に立っています。勿論、他にも様々な動 機が考えられますが、上記の理由が現代のダンサー達の動機を代表する言葉のように思えます。
 
 かつては、より深く生きる為に舞台芸術に拘わりたいというのが普通だったように思われます。つまり非日常の世界をより普遍的作品として構築することで、 世界と対峙しようとしたと云えるでしょう。しかし、現代の世界は日常と非日常が交錯する、危機的な情況を常に孕んでいるようです。つまりダンサーが、それ を意識するしないにかかわらず、全く孤独な、それら生き辛さからの開放や闘いが、その舞台に求められているようです。孤立した個々のからだを通して、その 極めて個人的な世界を、しかもそれが個的な世界に閉じてしまわないためには、観客とともにその時その場で舞台を実現していかざるを得ないのではないかと 思っています。少しオーバーな表現を許して貰えれば…
 
『言葉ではなく、その切実な、ある意味そのダンサーの生贄的な身体に向き合うことで、
一期一会の奇跡に立ち会ってみませんか?』
 
今回の出演者の今野眞弓、武藤容子はそういう皆様の視線に耐えられる舞台を実現する為に、日夜研鑽を重ねております。
 私達は新しいオーディエンス(客層)を求めています。舞台芸術は頭を空っぽにして五感を開放して、何度か繰り返し体験して戴ければ、想ってもみない言葉 との出会いがあるはずです。今まで、ダンスを見たこともない人にとっても、その人がある息苦しさや、辛い体験を持っていればいるほど、劇場は、その感性を 開放し、生きる為の活力が醸成される場となることでしょう。また新しい仲間との出会いの場にもなるのではないかと思われます。私共は、そういう劇場を目指 しております。ご来場心よりお待ちしております。 東京バビロン・スタッフ一同
 
 
東京バビロン Dance Selection
『彼女達の理由』 今野眞弓/武藤容子

 
■会場:
「シアター・バビロンの流れのほとりにて」
※劇場は2箇所ございます。ホームページでご確認下さい。
最寄り駅は東京メトロ南北線「王子神谷駅」です。

 
■スケジュール:
5月8日(土)一部 今野眞弓/二部 武藤容子
5月9日(日)一部 武藤容子/二部 今野眞弓
 
■時間:開場 19:00/開演 19:30
■料金:前売 2,500円/当日 3,000円
 
■予約・お問合せ
(東京バビロン)
http://www.tokyobabylon.org
 
企画プロデューサー/岡村洋次郎  Lighting Design/アイカワマサアキ
撮影/大久保由利子  対談・司会進行/宮田徹也  STAFF/吉村ひろの・坂本康郎  主催/東京バビロン
 

photo/Kouji Iijima
今野眞弓 (舞踏家)
『追伸,風もなんにも』
 
走り去る車の音だけが
遠くから聞こえてきます。

photo/Yuriko Ookubo
武藤容子 (ダンサー)
『ほんとうの幸い』
 
演劇活動からダンスへと移行。ジャンルにとらわれる事なく自由に身体表現に関わり、多数の招聘公演に出演。骨格のみを作り即興で肉付けする、アノ長編ソロ「魚の小骨」シリーズは、近年はカタチを変え、継続しながら骨太く深化中。骨片に刻まれしカラダの記憶を、模索しては忘却の日々である。
 
東京バビロン アクション・ダンス シーン <リアリティ>から<アクチュアリティ>の時代へ
作品のリアリティの追求から、表現行為(アクション)そのものを重視する<アクチュアリティ>のダンス表現に、東京バビロンは注目していきます。今「生きる為にダンスする」時代にあって、アクション・ダンスの表現とは、その作品性を剥奪した形で、表現者の意識下の世界を舞台に上げるという、厳しい即興性とその形象化に立ち会いたいと思います。(但し、イデオロギーやメッセージのある安易な社会的アクチュアリティではなく、舞台創造における純粋性・無意識性・直接性こそが、存在そのものを揺さぶる <アクチュアリティ>の獲得、「感動」からの卒業であると思っています。 岡村洋次郎 (東京バビロン 企画プロデューサー/劇団阿彌 主宰)
 
対談 『彼女達の理由』今野眞弓×武藤容子
シモーヌ・ド・ボーヴォワール 『おだやかな死』をめぐって―
司会進行:宮田徹也/「東京アヴァンギャルドvol.2」掲載予定
 
宮田:『おだやかな死』を読んだことがありますか?
今野:初めて読みました。面白くないと思いました。今どこの家庭でも起こっていることで、特別驚くべきことではない。緻密に書かれているという風には思います。
武藤:読んだのは初めてです。徹底したレポートというか観察みたいな感じですね。内容というよりも、この人の視点というかものの見方、この人の頭の中がどういう風になっているのかというところに興味を惹かれました。
 
宮田:その後何度か読み返して、感じるところがありましたか?
今野:冒頭の「たけり狂え老人よ、落日を前に」*とかね、最後の「不当な暴力」**に感じました。なぜかって言うと、私母親を三人亡くしているんですよ。自分の実の母と、二人目の母と、義理の母と。本当に人が狂っていく様を三人も見たっていう感じでしたね。それから私は老人ホームで働いているので、この「たけり狂え」は本当にもう切実な思いを持って、目の当たりにしている感じがあります。
武藤:小説の中で彼女は夜家に帰って突然泣いたりしているんだけれど、それすらも、自分をこっち側において自分を見ているという。自分に引き寄せて考えてしまうんだけど、ダンスのソロ作品を作る時の客観性みたいなものを自分で常に思っているので、その客観性を彼女の文章に感じていてずっと彼女は淡々と綴っているけれど、その裏側にあるもの、実はこの人は色々葛藤しているんじゃないかとかを、その行間に感じ取りながら読んで色々想ったんです。例えば小津の映画とか。身体がね、母親が物体化していくというものの見方とか。
 
宮田:今野さんもボーヴォワールなみに淡々と客観的に語っていますが…。
今野:私が18歳の時で一番感受性が豊かな時に親が亡くなっているから、それは舞踏をやるきっかけにはなりましたけどね。SDC舞踏研究所に入ったのは、24歳位です。フロアショーに出ていたんですが、ぶっちゃけた話、裸になってなんか気分が爽快になったっていうか。結局誰かが死ぬと色々問題でてくるじゃないですか、親戚とか周りの人間とか近所の人とか。特に交通事故だったから、何で亡くなったのとか色々ね。そういうのが私の小さな胸にはちょっと重すぎて、嫌だった。それが脱いだ時に、道徳から解放された感じがした。一般的な道徳観から解放されたのだ、と。
 
宮田:その中で自己の存在についてはどう考えていますか?
今野:公演中、大体いつも訳が分かんなくなるんですけど、ダンスしている時、もう一人の自分がすぐ横に出てきて踊っている自分を見ている。その時に起きて、自分が自分でなくなる瞬間の時を存在と言うのではないかなあ。
武藤:外から自分を見ることと繋がるので、今野さんのお話は分かる気がします。でも私の場合、それもまた錯覚なのかな…。私は生きている限りその繰り返しがずーっと続いていくのだろうなと最近思います。
 
宮田:それは作品制作にどのように影響しますか?
武藤:ここ二、三年ずっと考えている身体との関わりみたいなこととか、この小説は自分と非常に近いところにリンクされて、すごく良かったんですよ。自分がソロ作品を作っていくなかで、あらゆるもの排していく、ものの見方に対するフィルターを取っていく、つまり忠実だけを見る…例えばこのコップならばコップをただ見るという、その関係性だけにしていく、というものの見方ですね。それがとても興味深いと思っているので。私を通して人間を個的なものから普遍的なものにできたらと思います。勿論、難しいんですけど。私は即興にこだわっています。私流の即興とは、カラダの中を空にして瞬時に感じ、受動と能動が入ったり出たりしている「感覚的」なものなのですね。
今野:私は即興ができるほうではないので、違うことで即興ができないかなと今思いました。その時、その場で感じたことを表現できたらいいかなと思います。そのための肉体をつくらなきゃならないと思います。芦川さんがいう「透明な器」とか。空っぽにしておかないと、その時その場所で起こったことが入りづらい。武藤さんとは80年代後期、若しくは90年代前半に同じ研究所に在籍していたので顔は知っているのですよ。ですから楽しみです。
(2010年1月23日、於pit北/区域。宮田徹也・記)
 
*「おとなしくすべりこむとは何ごとか、かの夜の闇にたけり狂え、老人よ、落日の前に/あばれるがいい、狂うがいい、光が死ぬのだ…… ダイラン・トーマス」(杉捷夫訳/紀伊国屋書店/1965年/2頁)
 
**「自然死は存在しない。人間の身におこるいかなることも自然ではない。彼の現存が初めて世界を問題にするのだから。ひとはすべて死すべきもの。しかし、ひとりひとりの人間にとって、その死は事故である。たとえ、彼がそれを知り、それに同意を与えていても、それは不当な暴力である。」(同/158頁)
 
編集を終えて
ボーヴォワールの『穏やかな死』には家族関係、女性性、死生観と様々な切り口があるが、今野は自己の体験を元に主体的に、武藤は小説にある観察眼を自己に照らし合わせて客観的に語った。対照的な発言でもその本質が重なっている。訪れる死を待つことは準備期間ではない。それは生きる限り踊り続けること―舞台を降りても「生きる」ことが「アクション」に直結する二人の生き様に反映されているのだとその発言を聞いて私は感じた。
 

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