YouTube  第一幕「俺たちの夜」
   第二幕「23 years passed」
   第三幕「あなたの夢はわたしの現実」
   第四幕「フレンズ」
   第五幕「Climbing The Sky」
   第六幕「Closer」
 
     
     
     
     
   -キャスト-
大川原脩平・小松杏里・野澤 健
長洲仁美・横山八枝子・坂入友里香
べ スヒョン・福井陽介・山本晴歌
阿部 遥・西舘典子・喜屋武悠生・畠中裕美
 
大橋可也&ダンサーズ・飯田晃一
 
-スタッフ-
音響:西原尚|衣装:ROCCA WORKS|協力:大橋可也&ダンサーズ
撮影:飯村昭彦|東京バビロンSTAFF:吉村ひろの・坂本康郎
 
『驚愕と花びら』舞台裏 (撮影:喜屋武悠生)
『驚愕と花びら』―静けさへの帰還 @シアター・バビロンの流れのほとりにて
2011年1月8日(土)19時/9日(日)15時&19時 
※会場へのアクセスはこちらをご覧下さい。
構成・演出・振付:大橋可也
 
プリンシパル舞踊手:飯田晃一
 
音楽のようなこと:灰野敬二
 
料金:前売2,500円
当日3,000円/25才以下1,500円
 
予約・お問合せ
http://www.tokyobabylon.org
オンラインチケット予約 (カンフェティ)
出演…“疾駆する身体”第三期参加メンバー/大橋可也&ダンサーズ/飯田晃一
 

大橋可也(大橋可也&ダンサーズ)
現代の身体を表出させようということが、ここ何年か僕がこだわり実践してきたことなのだが、今考えていることは、ここに在る身体ではなく、在らざる身体を発掘することだ。発掘を試みた末、閉じ込められ、動けなくなってしまうことがあるとしても、それもまた楽しみだと思う。http://dancehardcore.com/
 
飯田晃一(藝術身体研究所)
大橋可也の振付による「カラダを動かすことの身体」と「どのような場へ制御できない肉体を置くかの興味」。灰野敬二の「静かなる躍動」。若者たちとの出会いによる「生命の創出」といってもいいほどの「新たな出来事の連続」。今までの「自分が置き去り」にされてしまう。 これら、すべてを「実感している」。http://artbody-labo.net/
企画プロデューサー 岡村洋次郎|スタッフ 坂本康郎、吉村ひろの|協力 大橋可也&ダンサーズ|主催 東京バビロン
  
 
  
2010.8/14,15 『疾駆する身体#01』@シアター・バビロンの流れのほとりにて
上段左/中央/右・下段右|撮影:神山貞次郎  下段左/中央|撮影:飯村昭彦
 

ダンスワークショップ "疾駆する身体" 第三期
最終公演『驚愕と花びら』 参加者募集
 
■対象年齢/申し込み方法
対象:14〜25才 (ダンス未経験者歓迎)

電話またはメールで下記の必要事項をご連絡下さい。(応募終了)

@氏名、A年齢、B住所、C電話番号、Dメールアドレス、E振込名義、Fダンス経験年数 (経験不問)
 
■参加費
12,000円 【楽天銀行 マーチ支店/普通口座:2299702/名義:オカムラヨウジロウ】
※チケットノルマなし。参加費には公演経費も含まれます。
 
■スケジュール
1月〜3月 第一期 (全6回終了)、6月〜8月 第二期 (全6回終了)
8月9〜13日 公演前稽古 (終了)、8月14・15日 中間発表公演 『疾駆する身体#01』 (終了)
第三期スケジュール
12月27日(月) 19時〜21時
12月28日(火) 19時〜21時
12月29日(水) 10時〜22時
12月30日(木) 10時〜22時
1月3日(月) 10時〜22時
1月4日(火)〜7日(金) 19時〜21時
1月8日(土)・9日(日) 10時〜22時  
※19時スタートの日は18時30分に劇場を開けます。
 
■会場
シアター・バビロンの流れのほとりにて

 
■主催・お問合せ/東京バビロン
http://www.tokyobabylon.org

photo/野村佐紀子
大橋可也 Ohashi Kakuya
振付家。大橋可也&ダンサーズ主宰。平日はコンピュータシステム開発に従事しながら、現代における身体の在りかたを提示する作品を作り続けている。山口県宇部市生れ、横浜国立大学経営学部卒業、イメージフォーラム付属映像研究所卒業、陸上自衛隊特別儀仗隊出身。1991年、パフォーマンス活動を始める。1993〜1997年、舞踏家和栗由紀夫に師事、土方巽直系の舞踏振付法を学ぶ。1999年、大橋可也&ダンサーズを結成。2000年、「バニョレ国際振付賞ヨコハマプラットフォーム」に出場するも、出演者が全裸であるという理由で非公開の審査となる。その後、活動を休止。2003年に活動を再開以降、複数のコンペティションに出場するも、いずれも受賞を逃す。2005年、ニューヨークの代表的なアートスペース「The Kitchen」に招聘される。2006年より「明晰」三部作の発表を開始。2009年には『深淵の明晰』を京都、東京、福岡、伊丹にて巡演する。大橋可也&ダンサーズ新作公演 「春の祭典」 5月14〜16日@シアタートラム

photo/小沢吉一
飯田晃一 Iida Koichi
演出家。藝術身体研究所・所長。カラダこそゲイジュツを標榜し、活動はダンス・舞台分野のみならず、前衛芸術家との交流も深い。駒沢大学文学部(心理学専攻)卒業、演劇活動、サイコドラマのインストラクターを経験。バックパックを背負いインドへ、ヨガの聖地であるリシュケシにて、舞踏に出遭う。舞踏家元藤Y子に師事、舞踏の根っこを学ぶ。2003年以降、原爆ドーム、ニューヨーク・WTC、第五福竜丸、サイパン島などでの「世界中が劇場である」プロジェクトを始動。「戦争をなくす」と高らかに唱え、メディア・国連へアプローチするも、いずれも取り上げられずにいる。2004年藝術身体研究所設立。2006〜2008年、神社仏閣や芸術祭関連イベントの総合演出として招聘される。2009年10月3日には美術家池田龍雄との共同作業『ある日、池田クンが』を東京バビロン主催ダンスセレクション『ポンペイの落書き#03/FINAL』にて発表する。
鼎談『疾駆する身体』
―アルベール・カミュ 『異邦人』をめぐって
大橋可也×飯田晃一×岡村洋次郎
 
東京アヴァンギャルドvol.1 掲載
 
2010年1月より始まる東京バビロン主催ダンスWS(対象:14〜22歳)に先駆けて主催者の岡村洋次郎、講師の大橋可也と飯田晃一がA・カミュ『異邦人』を題材に鼎談を行なった。二時間に亘る白熱した議論の一部をここに収録する。
 
―『異邦人』をどのように読みましたか?
大橋:単純に面白いと思いますね。主人公ムルソーは率直で分かり易い。ただし、これを「不条理」と呼ぶことは理解が出来ません。この話は僕にとって、ごく普通の、当たり前の話に思えます。そもそも、世の中に「不条理」なものなどないと思います。全てできごとには理由があるのですから。
飯田:シーシュポスの神話から「不条理」という単語を知っていました。今回、この物語に関して私も「不条理」を感じませんでした。第一部は現実の世界、第二部は牢獄内の物語なのですが、第二部から興味が湧いてきました。私は自分が不条理なので、社会にそれを感じません。
岡村:「不条理」とはF・ニーチェが神の死を宣告し、その後の神無しの世界をそれぞれが個別にどのように生きるのかを模索する姿なんですよ。ただ、大橋さん、飯田さんの二人が、不条理を不条理として受け取っていないのは、何なんだろうと思っています・・・。
 
―『異邦人』の特徴に、殺す、殺されるという究極の極限状態が描かれていると思います。
飯田:生命の危機や、生きているという実感なく生きている、舞踏に出会う前はそうでしたね。それで、自己を死に追い詰める舞踏を初期に行ないました。それは舞踏に限らず、創ることにしか自己からの解消はありません。とにかく肉体は、有ってしまうから。
大橋:僕は死ぬことが嫌なんですよ。だから生きているのだと思います。
飯田:たとえば踊ることからの極限状態は想定しないのですか?
大橋:それは求めていませんね。あらゆる極限状態も全て日常だと思っています。
飯田:それは信じられませんね。
岡村:大橋さんや飯田さんにとっては、生まれる前から不条理な時代が始まっているわけですから、そのことを前提にして二人の事を考えなければならないと思っています。つまり、今の時代の不条理をあまり不条理と感じていないのではないか。ただし、生命の危険に賭ける飯田さんとそれを回避する大橋さんに、私は同幹を見ています。
 
―「殺人」に対する見解をお聞かせ下さい。
飯田:生きている実感がむしろ湧かない。だから死ぬしかない。あるいは殺すか死ぬか、それしかない。なので、殺されることは想定できません。ただし自己を殺すほどの変革を自己に課す事は考えています。
大橋:もちろん、人を殺すことはいけないことです。なぜなら、その行為によって、僕たちの信頼関係と生活基盤が失われてしまうからです。それは人間が長い時間かけて学び、社会に反映させてきたことです。
岡村:それは社会的価値観の問題ではなく、どんな必然性があっても、人を殺すという一線を越えては駄目だという事です。
大橋:それも社会が創ったものだと思います。あるいは、人のDNAに組み込まれているのでしょう。
飯田:私はこれについて発言する意欲も言葉も持ちあわせていません。
岡村:この問題は言葉で説明できないのです。
岡村:ところで、過去の犯罪は人格をぎりぎり保っていた。現代の犯罪者は人格が破綻しているという違いがあると思う。
大橋:僕の意見は岡村さんとは食い違っていて、現代の加害者にも理由が存在すると思いますし、けっしてそれは特別な事象だとは思っていません。
岡村:それは理由はあるでしょう。しかし、現代はあらゆる価値観の崩壊が起こっていて、その事でカミュの生きていた時代よりも、さらに切実な、不条理な世界に現代はなっているのではないかと思っているんですがね。
 
―今日の身体性という観点ではいかがでしょう?
岡村:自己変革の意思がある飯田さん、現状を受け止める大橋さん、形は違えども身体性の欠如を感じています。
飯田:活動の初期にはあったと思い込んでいました。しかし「あること」を前提とすること自体間違っていたんだと。つまり現在からすると肉体があることも疑いをもっています。
大橋:舞台は日常であり、日常を生きる為に舞台を創っています。僕は42歳ですが、バブル期を経た僕たちの世代は本質的に楽観的です。むしろ、33歳の飯田さんが属している失われた世代に興味があります。
 
(2009年10月14日、於pit北/区域。宮田徹也・記。)
 
編集を終えて:カミュの『異邦人』を巡って、不条理を目の当たりにした岡村、内在化した大橋、求める飯田と意見が分かれた。しかし「不条理」とは近代が抱える病であり、「殺人」もその一つに数えられると私は思う。これらの病を克服する術を考察するのは、近代を超克する作業に等しい。それは岡村、大橋、飯田の世代に限ることではなく、それよりも若い世代、若しくはこれから生まれいずる者達も含まれているのだ。
 
『異邦人』 1941年ガリマール社から刊行。母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。
 
<舞台に蘇える>
今、若者達は何を求めて生きているのでしょう? 岡村洋次郎(東京バビロン,プロデューサー・劇団阿彌,主宰)
 教育の荒廃が叫ばれて、もう何年になるでしょう。歴史上かつてなかったような少年少女の事件が後を絶たない。これからもどんな事が起きるか分らない世の中になっています。 子供たちは現在どんな環境に置かれているのでしょう。
 <疾駆する身体>とは実は秋葉原を駆け抜けた身体でもあります。これは憤怒の身体性であって、私はこの身体性を20代から30歳前後のダンサーは、そのからだの基層に抱え持っていると思っています。かつて1960年から70年代の若者は、世の中に対してその怒りを、ひとつは学生運動というかたちで爆発させていました。彼らは熱き身体で、熱く未来の希望を語っていたように思います。しかしいまの若者の身体は蒼ざめて希望もなく将来を欠落させたまま、その怒りを溜め込み、あちこちで爆発ではなく<暴発>させているのではないでしょうか。
 そこでいま、10代から20歳前後の若者の身体性はどうなっているのでしょうか。既に<疾駆する身体>では無い筈です。ダンスはそれを行う者の身体性を鮮やかに浮かび上がらせます。それを我々は見届けたい。そうすることで、今の今、何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか、そしてそれを掬い上げることで、参加する若者のからだを、表現する場において昇華させてゆくことができるのではないかと思っています。一言で言えば芸術の浄化作用です。そのことが本来の情操教育と言えるものであって、子供たちが無意識のうちに人間としての生き方や、命にたいする深い思いを養い育てる、正しい機会になるのではないでしょうか。今教育現場に欠けているものを<ゆとり>という言葉で表しているようですが、ほんとうにゆとりある教育を子供達は現在受けているでしょうか?より良い学校へ入る為にといった目的を一旦外したところで、大人の実利の世界から離れて、自由に遊ぶ、目的もなく人間として、例えば<ダンスする>楽しみというものを享受する。こういったことこそが、人間の感性を開花させ、豊かにさせる、またとない機会だと言えるでしょう。多くの子供たちは窒息しそうになって喘いでいます。彼らに是非、息抜きを、それも真剣な遊びとしての余裕を持って貰えたらと、我々は真剣に考えております。