ダンスサルベージ
アルイハ踏みはずし<故・えーりじゅんの事>  
岡村洋次郎 東京バビロン代表)

 
 それは丁度、舞踊家・えーりじゅんの一周忌の頃に、田中泯(舞踊家)の「空間に恋して」を観に行った時のことでした。とにかくその日は家を出て地下鉄に乗ろうとした時から、へんな体調のおかしさで、それも徐々に悪くなっていくという感じでした。公演中、田中泯のある仕種が、えーりじゅんを連想させた瞬間からずっと知らず知らずのうちに彼のことばかり考えている自分に気がついていましたが、やっとの思いで家に着いて夕食をすませて床に入りましたが、いよいよ不思議な異常さでもって躰が重くとても眠れる状態ではありませんでした。それでついに「わかった、わかった追悼をやるよ」と言った途端一気に躰の重さが上から下へとさーっと退いてゆきました。これを霊的な現象というのかも知れませんが、私は無意識のなせるわざだと思っています。けれども無意識は私だけのものとは言い切れず、えーりじゅんのものであったかも知れません。そのように私は霊という概念を変換して考えていますが、彼との出会いは今から思うと実に<霊的な>出会いであったと云えるかもしれません。
 
彼の公演をはじめて観た時、即興のうちに立ち上がって来て結ばれるイマジネーションはその場の集中力の深さに裏打ちされていました。お尻を観客に突き出しアナルを拡げて見せて、ここぞというところでみごとに放屁するという、肉体を裏返さんとするような冒険を超えて、抽象力の充実がありました。ただそれとは別に・・・・・・痛々しかった。彼は自分の全てを晒け出さないと納得できないのだ。途中自分の想像力が停滞してくると小休止し、かと思うと自分はまだ諦めていないということを声に出して言って、後ろを続けてゆくといった調子なのだ。そういったことが痛々しいのかと思っていたのだが、今はそうではなかったと気づいた。結論から先に言うと、彼は自分の救済のためにも踊っていたと思われます。ある時彼が言った事は「・・・自分がやっているのはダンスじゃありません。ダンスサルベージです。」これは普通名詞ではないので強引な話ですが、サルベージは廃物利用とか海難救助という意味があって、どこまで深く自覚して名辞していたのかどうか、いずれにしろ彼にとっての表現は自己救済が緊急の課題だったと云えて、そのことがつまり痛々しさとしてこちらを刺激していたという事です。
 
もうひとつ、彼が不慮の事故で亡くなって、人の生がその途上で不意に折れてしまったように思われて、私はどうしても受け入れ難い胸苦しさに何日も格闘していたのですが、彼を知るある舞踏家から、死の三ヶ月位まえに、もう死にたいよと言っていたというのを聴いた時から、私の内で何かが大きく転換したのだと思います。
 
彼・えーりじゅんは、深く癒しがたい心の傷を抱えて、舞台での自己救済なくして、彼の舞台は無意味とならざるを得なかったのではないか。彼はその時その場所に於いて<突き抜ける>ことで、つまりその一瞬に己が救われるということ無しには、彼はいかなる舞台も納得できなかったのではないか。ここでは虚構が窒息してしまうほどに真実という狂気が充満していて、これはいかなる人間にとっても苦行そのものに違いない。かの土方巽も救い難き闇を抱え込んでいたと思えて、だからこそ彼は即興ということをあんなにも忌避したのだと思われる、少なくとも舞台においては強固な虚構の構築によって真実とのバランスが保たれていたのではないか。しかしこれは近・現代の芸術が個から出発したときから、あらかじめ仕込まれていた陥穽だったのかも知れない。このことを土方は直覚していた。しかし少し視点をずらせば舞台芸術の危険に触れ得る程、えーりじゅんの生は純粋で正直で不器用で壮絶であったと云えるだろう。彼はもう十分に闘ったのだとおもうことで私はなにかしら決着をつけようとしていた。あるいはしかし、この現代芸術の危機を避け得ない彼の内的必然があったかも知れない。
 
あの日、集中治療室で人工呼吸器を装着させられた彼の躰に触って、冷たいなと思ってすぐに私の内で何か異変が起きたと気づいた時には既に遅かった。そこまで案内してくれた彼の奥さんの前で号泣してしまった。その時はなぜ自分がそこまで反応したのかまったくわからないままだった。彼とは知り合って半年も経っていなかったし、言葉を交わしたのも数回程度であった。彼の人格を自分なりに了解していたわけでもないのに。・・・・・・私は無意識の領域で彼と出会っていたのかも知れない、生きている時はお互い気づくことのない、つまり<霊的な>出会いを彼が生きている時からしていたのかも知れない。さよならえーりじゅん、私にとってもこのような出会いは生涯二度とないでしょう。

 
 
東京バビロン http://www.tokyobabylon.org