2018年5月「無国籍舞踏會―いま、舞踏とは?」
会場:シアター・バビロンの流れのほとりにて
(宮田徹也:嵯峨美術大学客員教授)
 
国内で、舞踏の衰退が叫ばれて久しい。最早舞踏を知る日本人は何百人ではないだろうか。海外のBUTOHは公演、WSと大人気で、「日本の文化」という枠すら超えている感覚を受ける。このような状況下で行われた「無国籍舞踏曾―いま、舞踏とは?」とは、何と有意義な企画であろうか。現在の舞踏界は、土方巽、大野一雄、を知らない第三世代に突入していると言われている。しかし、舞踏とは現代美術と同様、あらゆる権威を排除しているはずなので、直系の弟子だから正当であるなどという定義が存在する訳がなく、寧ろ私淑であるほうが琳派同然、日本の前衛らしく、相応しいのではないだろうか。すると、そもそもの「正当の舞踏」とは存在しないのではないかという発想にも結び付く。あるいは舞踏成立以前の、及川廣信の行動も再考しなければならないのかも知れない。
 
2018年の、いま、ここに、Audrey Eisenauer(フランス)、石本華江(東京)、Batarita(ハンガリー)、南阿豆(東京)、今貂子(京都)が舞台に立った。これまでの舞踏のイメージに従った者、今までになかった発想を披露する者と様々な印象を受けたが、それは舞踏家のほうの思想であるというよりも、立ち会う者の受け取り方のほうが重要視される。我々こそが、舞踏を色眼鏡で見てはいないか。これが舞踏だ!と、思い込んでいないだろうか。常に未知なる存在、それこそが舞踏なのではないだろうか。すると、舞踏は時空を超える。「無国籍」とはよく言ったものだ。舞踏そのものが、無国籍でなければならないのではないだろうかというメッセージを、私はこの公演で受け取った。
 
「無国籍舞踏曾―いま、舞踏とは?」の募集が始まった。舞踏とは思想だ。メソッドや世襲は関係ない。コンテンポラリーダンスを単なる狭い概念の一つに納めるのではなく、その根底の思想である「いま、ここのダンス」へ回帰させなければならない。いまこそチャンスである。

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