Photo Osamu Awane
ダイジェスト版(YouTube)

劇団阿彌 GEKIDAN AMI 第11回公演
『静かなる傾斜』
題材/宮崎勤 連続幼女誘拐殺人事件
神戸児童連続殺傷事件 他

 
東京バビロン演劇フェスタ#01
『神なき夜に…』 ―現代犯罪フィールド 参加作品

 
2009年8月27日(木) 19:30 開演
28日(金) 19:30 開演
29日(土) 19:30 開演
30日(日) 15:00 開演
 
※開場は開演の30分前になります。開演直後は演出の都合上
数分間入場をお待ち頂きます。全席、自由席になります。
お席に限りがございますので、ご予約をお願い致します。

 
■会場
「シアター・バビロンの流れのほとりにて」
〒114-0003 東京都北区豊島7-26-19 (アクセス)
 
※駐車場はございません。お車でのご来場はご遠慮下さい。
東京メトロ南北線「王子神谷」より12分ほど歩きますので、
地図をご持参の上、時間に余裕を持って起こし下さい。

 
■料金
前売 2,000円 当日 2,500円
学生 1,500円(予約のみ・要学生証)
※他団体の半券持参の方は500円割引き
 
ワークショップのお知らせ
2009年10月〜2010年1月に開催。
詳細は劇団ホームページをご覧下さい。
  ■予約・お問合せ (東京バビロン)
  http://www.tokyobabylon.org
■リンク
●劇団阿彌 GEKIDAN AMI
●『神なき夜に…』 ―現代犯罪フィールド
●ノート・非ノート(岡村洋次郎のブログ)
●吉村ひろののブログ


 能楽における子役の声は、その日の演能のすべてを映すといわれていますが、現代における少年事件は現代の奈落の底まで映しているといえるのではないでしょうか。それでも、何事もなかったかのように我々の生活は続いてゆくのですが、あの二十世紀の世紀末において、オウム・サリン事件を挟むようにして起こった二つの犯罪事件、すなわち宮崎勤・幼女連続誘拐殺人事件、神戸児童連続殺傷事件における彼らの行為は、実はキリスト生誕二千年前に荒野にさまよい出たアブラハムの行為に酷似しているのです。すなわち、動物を引き裂き、生贄としての我が子を捧げるという行為を、無意識のうちに、彼らはなぞるようにして犯行を重ねていったようです。
 時代の根底において、すべての価値観の崩壊が起こっている。我々は、知らずしてアブラハムと同じ荒野を歩き始めたばかりなのかもしれません。 (岡村洋次郎)


   台本/演出・岡村洋次郎
 
-CAST-
村山俊介・吉村ひろの・森川みなみ
野村友花・坂本なぎ・岡村洋次郎
 
-STAFF-
台本・演出|岡村洋次郎
照明|河合直樹(有)アンビル
音楽・音響|落合敏行
劇中歌・うた・サウンド|りょう
振付・舞台装置・宣伝美術|岡村洋次郎
舞台監督|川俣勝人
仮面|脇谷紘
衣装|櫻井基順(MEME)
映像記録|たきしまひろよし(PLASTIC RAINS)
スチール記録|阿波根治(スタッフ・テス)
制作|坂本康郎
協力|安達がらん・大竹宥熈・readymade foundation


劇団阿彌 GEKIDAN AMI
1994年結成。能楽の身体性と同時にその厳しい即興性をも取り入れ、さらに現代における仮面の可能性を追求するなど、現代劇の解体とその再構築による前衛的舞台を実現している。その求心的舞台構築の為、観客の無意識層に揺らぎを与え、そこから立ち上がる想像力において顕現するダイナミックな原初的舞台を目指している。その前衛と伝統のせめぎ合いの舞台は、日本において最も能楽に近い舞台と定評がある。
 
岡村洋次郎 プロフィール
1948年生。竹内(敏晴)演劇研究所において、身体性の恢復のワークを通して舞台創造の根源に触れる(約5年間)。その後、故・観世栄夫(観世流能楽師)に師事(8年間)という、能楽が現代演劇界と断絶している中にあって特殊な経歴の持ち主といえよう。また、前衛的拠点劇場「東京バビロン」(pit 北/区域、シアター・バビロンの流れのほとりにて)のオーナーであり、演劇・舞踊等の企画プロデューサーとしても活動中。

[AMINADAB] Photo Osamu Awane
 
 
『静かなる傾斜』ご招待状より
 
ご多忙中とは存じますが、この度は是非とも立ち会って戴きたく、
誠に勝手ながらご案内申し上げた次第です。
 
 私ども『阿彌』は、創立以来15年間、劇集団としての方法論を探ってまいりました。その間、3年目あたりから5年間は、公演を一切中止して、<演者体>のためのレッスンのみを徹底して探求してまいりました。戯曲や演出からのアプローチというよりも、<演者が舞台に上がる為のからだの仕度>と能楽が持っている<求心的演技>を中軸に据えた試行錯誤のため、これだけの時間を費やすことになったのではないかと思っております。もちろん今も試行錯誤は変わりないのですが、台本、演出の<ライフライン>とともに、此処に至ってひとまず、これまでの成果をお観せ出来るのではないかと考えた次第です。
 
 ところで、60、70年代から<現代人の身体性の恢復>ということは叫ばれているわけですが、このような視座から言うと、小説家では中上健次がまず挙げられると思うのですが、演劇界では一体誰が浮かぶでしょう、今の時点から回顧すると、ついに一人もいなかったと言えるのではないでしょうか。ただ、<からだに手をつける>という言葉でもって、演劇というよりも、精神の道場と言いたくなるレッスンの場を、80年代に実現していたのが、竹内敏晴主宰の竹内演劇研究所(現在は閉所)であります。<からだに手をつける>つまり<身体性の恢復>の作業を命懸けで行っていたわけですが、つまり、からだに手をつけたのは、実に演劇界において竹内敏晴唯ひとりであったという事が言いたいわけです。<からだに手をつける>ことはその無意識の領域を開けてしまうことであり、人間存在の混沌(カオス)に触れてしまうことになり、その領域は、もともと人間の手に負えない領域なのですが、しかしそこは人間の創造力の源泉でもあり、同時に創造力を薙ぎ倒してしまうエネルギーのトポスにもなるわけです。これ以上詳しくはこの紙面では述べられませんが、このような試練の後、能楽に<カオスモス>的な力を期待して、実際には、観世流能楽師・観世栄夫に8年間師事致しました。
 
 能楽の持つ<強度>、つまりその没個性を目差す求心的演技術の厳しさと、その自己表現の封殺・解体によって、人間存在そのものに揺さぶりをかける空恐ろしい舞台の実現に、自分が憬れていたことが、日々のお稽古とお能拝見、また能舞台を実体験することで、発見できたように思えます。
 
 最近の言葉を使わないパフォーマンス的表現は、言葉の排除から出発しているがために、ますますその生々しさと際どい表現の限界点に達して、ついに舞踊における身体性の前ではその恥ずかしい痩身を晒すことになってしまっているように見えます。例えば、これは現代の少年犯罪事件におけるパフォーマンス性に圧殺されているとも云えるのではないでしょうか。
 
 また一方、口先だけの言葉で自分たちの安全を確保しながら、対象から距離をおくことがモードであるのでしょうが、舞台に携わる者でありながら、その身体性の欠如に疑問さえ感じていないのには、憤りさえ覚えます。
 
 もともと演劇における身体性とは<ことばからだ>のことであって、この身体性は、ひとつ間違えればからだの外にはみだしてしまいかねない危険と、それゆえの無限の表現の可能性を秘めているのではないでしょうか。我々はこのような演劇的身体性こそが問われてしかるべきだと思っております。
 
 ことばを話す(放つ)ことは、自己のコントロールが不可能になる危険性があるために、自己対象化によって、自己をその場に繋ぎとめておく必要があるのですが、これがうまくゆくと、言葉を話すことが、他者のからだの内臓に手を突っ込むほどの具体性を帯びてくることになります。これは他者の内面に土足で踏み込んで行く行為であり、同時に自分を他者に無条件で明け渡す勇気ある行為でもあります。
 
 このような<ことばからだ>の鍛錬を日々行っている途上ではありますが、
演劇的方法論の側面からすると以上のようなことになるのですが、今回の公演の内容については是非とも劇場に脚を運んで戴きますよう、重ねてお願い申しあげます。拙文お付き合いありがとうございました。 (岡村洋次郎)


 
■公演アーカイブ
●2009年3月 観世栄夫追悼公演
『ア・ミ・ナ・ダ・ブ』―モーリス・ブランショ「死の宣告」より   動画(YouTube)はこちら
http://www.tokyobabylon.org/ami_8archives10.htm
●2008年7月 第9回公演
『荒野より呼ぶ声ありて』―高校教師とその妻による息子刺殺事件より
http://www.tokyobabylon.org/ami_8archives09.htm